昭和40年01月26日 朝の御理解
お正月に数の子を頂くものだとされております。最近は、ずいぶん高いそうですから、なかなか普通の者の手に入らないらしいのですけれども。何故、あの数の子を、お正月に頂くかというと、子孫繁昌を願ってのことだそうですね。沢山な例えば、たまごがあるから、沢山な子孫が繁殖していく。本当に人間が、人間だけのことじゃありますまい、けれどもです、動物でも植物でも同じだろうと思うのですね。
この繁殖を願わないものはありますまい。いわゆる繁昌を願わぬものはありませんように、子孫繁昌を願うわけです。そこでその、信心によって、<子孫繁昌家繁昌と言われますが>、子孫繁昌のおかげを頂くためにです、子孫繁昌のおかげを頂くチャンスを逃してはいけないということですね。そこで、お互いがです、生き生きとした信心をさして頂くとかね。いつも生き生きとしたみ教えにふれて、それをいわば頂いて、そして自分の心がいつも生き生きとして、そして言わば、難儀といったような場合でも。
それを難儀と感じるような事柄でも、日頃頂いておるその教えがその時役に立つような、生き生きとした心で受け抜いていく時に、その難儀は次の繁殖の土台になり、基になるのですから、いかに生き生きとした信心をしておかにゃならぬかということが分かるでしょう。もう生殖機能がおとろえ、なくなったような信心では駄目です。どんなにチヤンスがあっても役にたたん。ね、
そうでしょう。私どもの心がですね、いつもタフでなからなければならん。但し、エッチであってはならない。元気な心がなからなければいけない。けれども、それがです、汚い。意味が分かるでしょう。先日、久富さんたち夫婦が頂いておられますように、お夢の中に、休まれたら直ぐ頂かれた。『それは、あれは何と言いますか、らくがんではない、砂糖でこう流して作ってあるお菓子がありますねえ。
【 】松茸のお菓子なんです。それをですね、紙袋に包んで、こう括っておるところを頂かれた。』いわば無駄に使っちゃならんという事です。どんなに、言わばタフであっても、エッチであってはならないということです。例えば、三回頂くものならば二回、五回頂くものなら三回というふうにです、そのためのそれでなからなければならないという事です。そこの例えば、元気にまかせるといったような事では。
<部分的>に役に立たない。長く長くおかげを頂かして頂くために、ここん所の心がけが必要ぞ。それがまた修行にもなるのぞという御理解を頂いておられる。厳しいことのようですけれども、これを信心で頂きます時に、今日のいわば数の子の御理解じゃないですけれども、本当の繁昌を願うならです。だんきになって終わってはならないという事。なんにもならないこといになってはならないという事。
私共が、何故、生き生きとした信心をしておらなければならないのか。生き生きとした信心をしていないとです、いよいよチャンスを頂きましても、その時に、それをよう受けきらん。難儀を難儀としてしまう。どのような難しいことに直面いたしましても、その時こそチャンスを頂いたのであると分からせて頂いて、いや分かっておっても、元気がなかったら出来ないでしょうが。
だから日頃、始末倹約しとかなければならないという事。例えば夫婦の生活の上においてでも、いよいよの時に役に立つためにです理屈は?、同じこと。日頃生き生きとしたみ教えを頂いて栄養をつけとかにゃいかん。そしてチャンスに直面した時にです、それを乗り越えていくところの信心。それを頂けるところの信心。それが次の繁昌の土台にもなり、基にもなるというおかげを頂かせてもらわなければならん。
お互いが繁昌を願うならば、それの、そこの精進がなされなければならない。枯れ果てたような信心じゃつまらん。いつも生き生きと生々しいまでの、生き生きとした信心をさせて頂いて、ことという時にはですね、それを日頃頂いておる力を持ってです、日頃頂いておる教えをそのまま活用してです、ここの所を乗り切らせて頂く、ここの所を有り難く頂かせて頂いて、初めて本当の繁昌ということになるのです。
どうでもひとつ、元気な心で信心をせよと仰るのは、そういう意味合い。元気な心で信心しとらんとです、いよいよおかげの頂けれるチャンスに恵まれても、それをおかげを頂くチャンスにようしきらん。力を受け、徳を受ける基にしきらん。お互い繁昌のおかげを頂かなければなりません。またそれを願わん者はありません。けれども願うだけでです、思うておるけれども、思い意のままならずという事では繁昌にはなりません。
生き生きした信心を生き生きした心でです、生き生きとした信心を頂き、その生き生きとした信心が、いよいよ機会が、これがチャンスだという時に、その生き生きとしたその受け心というものを養うておる。おかげを頂くために、私共、限りなくいわゆる美しうならにゃいけん。その生き生きとした心がです、生き生きとしたその教えが、日常生活の上に、役に立っていない。
いよいよことという時には、もう信心ではないことを思うたり、言うたりしておるとするならばですたい。これはまだ本当の信心を頂いておるのではなくて、ただ人間が本能的にです、ただ繁昌を願うておる。おかげを頂きたいということを願っておるという事だけの信心に過ぎません。それでいて願っておるだけで、願いに応えてもらうことは出来ません。夫婦生活の、例えば、神聖であるという、神聖なものであるとしての頂き方、それが例えば、教えを頂くということにおいても同じこと。
ただおかげを頂きたいという【 】おかげおかげというのはです、それは丁度それの<だんき>のようなものである。そして、いよいよの時には役に立たん。それではおかげにならん。教えを頂かして頂くのは、日常の生活の上に人間的にです、その教えがものに、その教えが生きて利用される時にです、成程、これがおかげを頂く基であった、これが子孫繁昌の土台であったというおかげになってくると私は思うのですね。おかげ頂かなければなりません。